新潟県十日町市〜大地の芸術祭に行ってきた 前篇〜

田舎暮らしのヒントを得た旅

3年に1回開催されている大地の芸術祭を見るため、新潟県十日町に行ってきた。

はじめて訪れた前回の2012年、その楽しさに衝撃を受けた。
十日町の農村には、旅の楽しさが凝縮されていた。

★2012年の芸術祭の記事
◎まちの活性化が成功した里山、新潟県十日町
◎持続可能なことを考える

この芸術祭は東京23区よりも広い十日町と津南町の大地に、400点以上におよぶアート作品が点在している。古い空き家や廃校になった小学校を再生したインスタレーション。信濃川が流れる美しい里山をモチーフにした彫刻。

都会の美術館では、作品に触れてはだめ、写真撮影もだめ。建物を一歩出れば、街中の雑踏で作品世界の余韻はかき消されてしまう。
大地の芸術祭は多くの作品に触れることができるし、自然も作品の一部だ。もしかしたら、アート作品よりも里の景観のほうが勝っていると感じる場所だってある。

米どころの十日町。稲田がどこまでも続く。

僕はここで里山の計り知れない魅力と可能性に気づかされた。そして前回の旅をきっかけとして、地方の活性化や里山での生き方というものに関心を寄せていった。
だから、この大地の芸術祭は自分にとって忘れられないイベントであり、今回も十日町を訪れるのは必然だった。

ヨメと一緒に車で東京を出発、新潟へと向かう。現地は湯沢からひと山越えた所にある里山だ。長野県栄村と隣接する津南町から旅をスタートし、十日町へと北上する。

山道の途中にはスノーシェッドという雪崩を避けるための設備が点在している。
ここ十日町は日本でも有数の豪雪地帯。夏の景観からは想像もつかないが、冬になれば4m以上の雪が積もり、交通網は著しく遮断される。だから、それぞれの集落は自分たちで助け合いながら厳しい冬を乗り越えるための知恵と結束が育まれてきた。

古民家が多く残された十日町。昔と変わらぬ里山の景観を楽しめる。

過疎化の進む里山に、アート作品がとけこんでいる。

町の中心部をちょっと外れれば、古民家ばかりが目につく。むしろ新しい建物のほうが少ない。
雪国の家は積雪で押しつぶされないように太くて立派な柱や梁が使われている。100年近く経過した家が現役で使われていることも珍しくない。

前回と同じように、棚田が広がる田舎道を車で走りながら、作品が展示されている場所を転々と移動した。
ほんとにこんな所に作品があるのかなと思っていると、突然芸術祭のノボリや看板が見えてきて、「あった、あった!やっぱりここだ」と、トレジャーハンターのような気にさせられる。

芸術祭指定の駐車場に車を止めて、予想よりも長い道のりを汗かきながら歩く。
たどり着いた作品は、セミがけたたましく鳴く森の中にひっそりと置かれている。
そして再び車に乗り込み、普段地元の人しか使わない狭い道をひたすら走るのだ。

多くの人を集客する観光スポットが目的地ではないから、おじいちゃん、おばあちゃんが手入れした庭先や、棚田が広がる里山の日常的な風景の中を練り歩くことができる。こうした何気ない場所を歩いた経験が、旅を終えたあと、ふとした瞬間に記憶の中から呼び起されるから不思議だ。

作品の近くにはノボリが立っている。芸術祭ではノボリが本当にありがたい目印だ。

自分の頭でルートを考え、集落を歩くから大地の芸術祭はオモシロい。

2012年に開催された大地の芸術祭で、僕とヨメの心に残る作品があった。
廃校になった小学校を利用した田島征三さんの作品「絵本と木の実の美術館」。
実在する最後の在校生3人が主人公で、校舎の空間を使った絵本仕立ての作品として構成されている。

木や藁などの自然素材を利用して作られた巨大な3人の子供たち。校内で過ごした場所のあちこちに登場する彼らとともに回遊しながら、学校での日々を追体験する。そして一番端っこの教室から3人の子供たちが、壁を突き抜けて校舎の外へと飛び出していくところで物語が終わる。
残されたメッセージは「学校はからっぽにならない」。

これを見て、僕とヨメは思わず涙が出てきた。かつては人が毎日を過ごしていた場所に、人がいない。そのことが琴線に触れる。大地の芸術祭の作品にはこうした作品が結構ある。

深く思い出に刻まれた「絵本と木の実の美術館」

集落の人が通った医院。今は空き家となっている。

家主が使っていた道具や生活の痕跡を残したままの空き家。使われなくなった町の医院や旅館、公民館。人間の不在を扱う作品は、とても分かりやすいスイッチとなって心に迫ってくるのだが、大地の芸術祭が「いいな」と思うのは、それらの家屋を再生し、過去から現在、未来へとつないでいくことで、新しい命を吹き込んでいることだ。昔を懐かしむのではなく、地域の未来を持続可能な形につないでいく。それが大地の芸術祭の大きな魅力だと感じている。

空き家の静寂の中で、じっくりと作品に向き合ってみる。

芸術祭の総合ディレクターである北川フラム氏は、立ち上げ当初地元の猛反対にあったそうだが、いまではすっかり地元の人がこの一大イベントを楽しんでいる。

たとえば水沢という集落の作品を訪れたときのこと。
設営されたテントから「冷たいお茶でも飲んでいきなさい」とおばちゃんの声がする。お呼ばれすると、氷の箱に入れられたトマトやら、ナスの漬物やらを振る舞ってくれた。
芸術祭も今年で5回目。地元の人たちもいつしか、訪れた人たちがただ通り過ぎるのを見ているだけでは、オモシロくないと感じたのかもしれない。お客と触れ合える場所を設けている集落も少なくないのだ。

「どこから来たの?」

「東京です」

「そうですか、それはわざわざ遠い所からありがとう」

イベントに熱心な集落は、オフィシャルとは別にオリジナルのノボリを作っていたりして、集落の人たち総出で訪れた人をもてなそうとしている。その気持ちが愛おしくてたまらない。

「気に入った作品、ありました?」

「アン・ハミルトンです」と、トマトをつまみながら僕は答えた。

今年は結果的にアン・ハミルトンの「Air for Everyone」が最も心を打つ作品だった。
かつて板金屋が暮らしていた空き家を利用した作品で、不思議な道具をつくる職人の工房を想定している。何に使うのかわからない工具や道具たちが、古めかしい棚の上に並べられている。
机の上には素朴な素材でできた紙の鳥が、モーターと輪ゴムの仕掛けで優しくはばたき、この場所に人の気配を疑似的に再現している。
両サイドの壁には異国のものに違いない「ふいご」がいくつも据えられており、太い梁を潜って垂れ下がるいくつものロープを引っ張ると、それぞれのふいごから音が鳴る仕組みが施されている。

アン・ハミルトン作「Air for Everyone」。

その音の鳴りに、驚いた。
あまりにもこの空間にしっくりとくる音色。なじみのあるアコーディオンと似て非なる音だ。正しい音階を奏でているようには思えないその旋律は、家そのものが鳴っているような気にさせられる。

作家はこのあばら屋からにじみ出ている年月の手触りを、敏感に感じ取ったに違いない。そうでなければ、こういう音を出せるはずがない。
つまり、国籍や人種の違いは大差のないもので、異国の歴史や文化の中においても、人間は対象物がもつ力を同じ様に感じ取り、自らの作品として昇華させることができるのだ。
このアーティストは十日町にある古いあばら屋を、無国籍な架空の工房へと変身させてみせた。

建物を出て車を走らせる。作品の続きを見ている様に心地よい里山の景色。
こんな具合だから大地の芸術祭は無条件に楽しい。アート作品は外から来た人と里山集落の人をつないでいる。ここ十日町では年月を重ねるほどにその力を増しているのは間違いない。

後編へ続く


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